?これはフリーライト・ソフトウエアーが開発したフランスの辞書辞典です。フランス語文字をクリックすればフランス語サーチエンジンで関連サイトを検索出来ます。地球儀のアイコンをクリックすればフランスとパリの地図上に場所を表示。サムネイル写真をクリックすれば画像を拡大。一般フランス語翻訳は弊社のオンライン日仏辞典を利用して下さい。 | 英語バージョン | |
ガール橋フランス語: Pont du Gard違う綴り:ガールの橋, ポン・ド・ガール, ポン・デュ・ガール キーワード:ローマ遺跡, 世界文化遺産, 南仏, 観光地 関係有る記事: ニーム 関連サイト: http://www.vers-pont-du-gard.fr/afterintro.htm , http://www.vers-pont-du-gard.fr/tpatrimoine11.php , http://en.wikipedia.org/wiki/Pont_du_Gard 説明:ガール橋はガール県南西25kmに在るニームの町に水を運んで来るため紀元40年から60年にかけてローマ人によって建設されました。水路の長さは約50kmで傾斜は1kmでたったの34cm、水量は1日あたり2万立法メートル。橋の高さは47mで3階層のアーチからなり長さは275m。ローマ帝国滅亡の後水路は維持されなくなり、中世には水道橋は単に向こう側に渡る手段と成った。 キャナル・デュ・ミディフランス語: Canal du midi違う綴り:南運河, カナル・ド・ミディ キーワード:世界文化遺産, 交通, 観光地 関係有る記事: トゥルーズ 関連サイト: http://www.canaldumidi.com 説明:1662年フランス王ルイ14世は敵意を持つスペインを避けるためピエール・ポール・リッケに大西洋から地中海まで直接船で通れる路を作るよう命じた。12000人の労働者を使って1666年に始まり1681年に完成したカナル・デュ・ミディはガロンヌ川のトゥルーズから地中海のセットゥまでトンネルや川を超える橋を等巧妙なからくりを使って繋ぎます。17世紀技術の最高傑作の一つとされるカナル・デュ・ミディは1996年爾来ユネスコの世界文化遺産に登録。 ギャルリー・ラファイェットフランス語: Galeries Lafayette , Les Galeries Lafayette違う綴り:ギャラリー・ラファイエット, ガラリー・ラファイエット キーワード:パリ, 店 関係有る記事: プランタン 関連サイト: http://www.galerieslafayette.com , http://fr.wikipedia.org/wiki/Galeries_Lafayette_Haussmann 説明:1893年に2人の従兄弟テオフィル・バデとアルフォンス・カーンによってラファイェット通り一番地に創業されたギャルリー・ラファイェットは19世紀最後に出来た有名百貨店です。1905年にはギャルリー・ラファイェットはオスマン通りに進出し新しい店舗のデザインをジョルジュ・シュダンヌとフェルディナン・シャニュに依頼する。1975年に47800m2の売り場面積を誇るギャルリー・ラファイェット・オスマン通り店がプランタン等他のライバル店の売上を凌駕。1992年にはグループはヌーベル・ギャルリーとBHVの2百貨店を買い取る。 クリスチャンディオールフランス語: Christian Dior違う綴り:クリスチャン・ディオール, ディオール キーワード:ノルマンディー, パリ, 店 関係有る記事: イブサンローラン 関連サイト: http://www.dior.com , http://mesparfums.free.fr/historique/dior/dior.php 説明:フランスのファッションデザイナー、クリスチャンディオールは1905年にノルマンディーはグランビルに生まれる。芸術に興味を持ち大学をやめてロベール・ピゲの下でスケッチ業を行う。1946年にはマーセル・ブサックの資金援助でモンテーニュ通りに自分の店を構える。1947年に発表されたニュールックはアメリカで熱烈に迎えられる。1957年クリスチャンディオールの突然死でイブサンローランが一時的に筆頭デザイナーに迎えられる。会社は1987にLVMH社に吸収される。
クレルモン・フェランフランス語: Clermont-Ferrand , Clermont違う綴り:クレルモン キーワード:町, 観光地, 世界文化遺産 関連サイト: http://www.clermont-ferrand.fr 説明:オーベルニュ地方の火山脈の近くに位置するクレルモンはフランス最古の町の一つで、紀元前52年ジュリアス・シーザーの征服後はゴール地方最大の都市と成る。1095年のクレルモン宗教会議で最初の十字軍が結成される。1630年に隣のモンフェラン市と合併しクレルモン・フェランと改名。19世紀創業のミシュランは世界最大のタイヤ会社の一つ。11世紀に建てられたノートルダム・デュ・ポールは1998年にユネスコの世界文化遺産に登録 グラン・トリアノン宮殿フランス語: Grand Trianon , Palais du Grand Trianon違う綴り:グラン・トリアノン, グラン・トゥリアノン キーワード:パリ郊外, 世界文化遺産, 城, 観光地 関係有る記事: ベルサイユ宮殿 , プティ・トリアノン宮殿 関連サイト: http://www.insecula.com/musee/M0038.html , http://fr.wikipedia.org/wiki/Grand_Trianon 説明:1670年、ルイ14世は建築家ルイ・ル・ボに個人用の宮殿を近くに建てるように命じ、それによって宮殿儀式の煩雑さから逃れようとした。青白のファイヤンス焼きタイルで覆われた最初の宮殿はもろかったので代わりにジュール・アルドゥワン・マンサールに命じて1687年から1688年にかけてピックの大理石で飾られた一階建てのバロック風宮殿が建てられた。ルイ16世とマリ・アントワネットはプティ・トリアノンの方を好んだ。フランス革命で内部が破壊された後、ナポレオンは1805年から1815年までグラン・トリアノンに居を構えた。 グルノーブルフランス語: Grenoble違う綴り:グルノーブル市 キーワード:アルプス, 町, 観光地 関連サイト: http://www.grenoble.fr , http://membres.lycos.fr/grenoble2000/hist/hist.html 説明:ドラック・イゼール両河の合流点に位置するグルノーブルは其の戦略的重要さからローマ人が既に砦を建てた。中世には独立国だったが1349年にフランスに売られフランス皇太子の所領と成る。今はイゼール県の県庁所在地で、大学やESRF等多くの研究施設を抱えるフランスでも最大の研究開発センターの一つ。グルノーブルは1968年に冬季オリンピックを開催。人口は153000。 コルマールフランス語: Colmar違う綴り:コルマール市 キーワード:町, 観光地, ワイン 関係有る記事: ストラスブール 関連サイト: http://www.ville-colmar.fr , http://www.ot-colmar.fr , http://www.alsace-passion.com/colmar-1.htm 説明:ストラスブールとミュルーズの間、アルザス・ワイン産出地方の中心に在るコルマールは823年にコルンバリウム、即ち「鳩地区」の名で最初に文献に現れる。中世にはコルマールは神聖ローマ帝国内に有るアルザス10都市同盟の一員。1687年にフランスに併合されるも1870年から1918年までドイツ領。ローシュ川沿いに絵の様な家が立ち並ぶコルマールは「小さなベニス」の愛称が有る。コルマールはオー・ラン県の県庁所在地で人口は65,000人。 コンコルド広場フランス語: Place de la Concordeキーワード:パリ, 場所, 観光地 関係有る記事: シャンゼリゼ , チュイルリー宮殿 関連サイト: http://www.insecula.com/musee/M0051.html , http://en.wikipedia.org/wiki/Place_de_la_Concorde , http://www.discoverfrance.net/France/Paris/Monuments-Paris/Obelisque.shtml 説明:シャンゼリゼ通りの東端、チュイルリ公園の側に在る八角形の広場で1755年に造られた。当時の王様の名を取ってルイ・15世広場と呼ばれたが、王制転覆で革命広場に変名。フランス国王ルイ・16世と王女マリ・アントワネットは1793年にそこでギロチンされた。北側にはロイヤル通りを挟んでフランス海軍指令本部とクリヨン・ホテルが在る。中央に在るリュクソールのオベリスクは1831年にエジプトのスルタンからフランスに贈られた。 コンピエーニュ城フランス語: Château de Compiègne , Palais de Compiègne , Musée de Compiègne違う綴り:コンピエーニュ宮殿, コンピエーニュ美術館, コンピエーニュ キーワード:城, 観光地, パリ郊外 関連サイト: http://www.mairie-compiegne.fr , http://www.musee-chateau-compiegne.fr 説明:パリの北50kmに位置するコンピエーニュの町はローマ時代から有りました。843年のベルダン条約によるフランク帝国の分裂後、西部を相続したシャルル2世はコンピエーニュを首都にした。100年戦争時の1430年ジャンダルクはイギリスに組したブルゴーニュ兵に捕らえられた。国王ルイ15世は1751年からコンピエーニュ城を造り直し始め、完成したのは1788年のルイ16世の時代。1918年11月第一次大戦を終わらせる休戦条約は近くのコンピエーニュの森で署名された。 | |
?
|